みなさん、ようこそ(^O^) このブログをやっているwankouhouです。 趣味・部活・生活・遊び・阪神タイガース・政治のことなど気まぐれで書いていくつもりです。 よろしくお願いします<m(__)m>出来れば、コメもよろしくお願いしますm(__)m


プロフィール

wankouhou

Author:wankouhou
1996年 18歳
大学生
兵庫県加古川市出身
阪神タイガースファン
鉄道マニア?

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2015年振り返り(前編)
お久しぶりです!!日常生活が忙しかったのもありブログまで手が回せませんでした…。楽しみにしていた方に対しお詫びしますm(__)m
早いものであと1か月で2015年が終了し、2016年になります。僕もようやく二十歳の年になります。
今日は2015年を振り返ってみようかな


1月
大学入試・センター試験対策も仕上げにかかり、あとは受けるだけ。地元の大学でセンター試験を受けました。英語がズタボロだったのを思い出します。
また、今在籍している大学の一般入試も受けました。


2月
第一・第2志望の大学の入試が2月にあり、その会場が全て姫路だったので姫路に行く機会が増えました。どちらもこの学校たちには届かなかったのですが、第3志望であった今の大学に合格したことを親父が電話をしてくれました。確か僕はその時友達と大阪に遊びに行ってたのですが、それを知りみんなおめでとうの声を上げてくれました。
後輩や先生方から温かい訓示をいただき、僕は先輩としてどんな感じでしたら記録が上がるかを話した思い出があります。
陸上部も終了し、僕は8年間の陸上生活に幕を下ろしました。
最後の詰襟制服を着て最後の登校をした卒業式、泣きはしないもののなぜか寂しい思いと懐かしい思いとが一緒に重なりました。
この場所でいつも授業を受けテストをし、友情がはぐくまれたんですね。
その後のクラス会、いつもより焼肉が美味しく感じました。
もうあいつらに会えないとなると寂しいですが、TwitterやLINEなどで連絡先を聞いたり近況報告をしている友達もいたりしています。またあいつらに会いたいな。
そして、高校時代に素晴らしい友を作ることができました。みんな素晴らしくいい奴の集まりの高校でした。怒声が聞こえない学校なんてあったんですね。
みんなありがとう


3月
この月はほとんどを自動車教習所で過ごしました。この季節にやっておかないと出来なくなると考えたためです。僕は自動車免許取得のために自動車の勉強に時間を割きました。
その間に親と行った金剛山・高野山の旅では歴史を感じ取ることができました。とくに高野山は開かれてからちょうど1200年たつそうでそれで盛り上がっていた時期に行かせてもらいました。
小学生時代、僕はソフトボールをしていました。今の野球観戦バカのような性格はここでほとんどが作られたといっても過言でもありません。
その時の友が東北から還ってきました。みんなその還りに喜び合っていました。地元のお好み焼き屋で食べたお好み焼き達、
とてもおいしかったのを思い出します。その後、彼は東北に帰って行きました。
大学の交流会にも参加しました。不安ばかりつのりながら学校に向かいましたが、2人友人ができました。しかし、彼らとは学部と授業があまり被らないこともあり今はほとんど会わないことが多いです。


4月
初めて外にスーツで出ていき大阪駅で友達と待ち合わせをし、入学式に向かいました。エレベーターで学長と一緒になるというハプニングもありましたが、初めて大学の校歌を歌い、NHKEテレなどに講師としてよく出演していらっしゃる東京大学教授・ドナルド・キーンさんの講演を受けました。
その次の日、キャリアデザインで一緒に学ぶ学生・教授が発表され、最初はアイスブレイクと題し遊びまたいなもので交流を深めたのですがもともと人見知りで少しコミュ障気味な僕からすればアイスブレイクの一つにもなりませんでした。
それが変わったのはキャリアデザイン0.5という催しでした。キャリアデザインで一緒に学ぶことになる人たちとグループに分かれてトークをしたことにより、友情が芽生え始めました。その時に知り合った者どもとは今も交流を続けていますし、その中の一人とは前月に大阪に遊びに行きました。そのブレイクにご協力いただいた先輩とも今も交流を続け、文化祭の時にお会いした時には嬉しくてたまらなかったです。
しかし、まだ一緒の方向・手段を使う人はまだ全然おらずこの時は行き帰り一人でいました。


5月
僕も19歳になったこの月。大学生活での転機が訪れました。必修の英語の時間で仲良くなったやつについて行くと外で体を焼いていた筋骨隆々の男子がいました。彼は僕が来たことに対しなにも驚かずすぐにコミュニケーションを深めようとしてきました。僕はこのような人は苦手だったので素っ気ない対応しかしてないようでした。すると、大学の上に飛行機が通りかかりました。彼はそれをじっと見つめ僕も19歳になったこの月。大学生活での転機が訪れました。必修の英語の時間で仲良くなったやつについて行くと外で体を焼いていた筋骨隆々の男子がいました。彼は僕が来たことに対しなにも驚かずすぐにコミュニケーションを深めようとしてきました。僕はこのような人は苦手だったので素っ気ない対応しかしてないようでした。すると、大学の上に飛行機が通りかかりました。彼はそれをじっと見つめ続けまたエンジン音を聞き続けていました。僕が「飛行機好きなの?」と聞くと「ああ。めっちゃ大好きさ。子どもの時から」と返してきました。僕は鉄道の趣味を持っています。なのでその話をすると「同志だな。俺ら」と返ってきました。似ている趣味を持っていたことから仲良くなったというわけです。そして、彼は僕にLINEグループに入るように勧めました。その入ったグループが後の『ちゅうしょくTIMTIM』へと繋がっていくのでした。
ここで様々な仲間と出会いました。みんな自分の世界を持ち、キャラも良く、優しく、素晴らしい奴らです。
誕生日の日、先輩と友達とで陸上の大会へと出かけ後輩たちを労い、試合の様子を眺めているとそれを見つめる同級生たちの姿がありました。やはり、あの陸上部を愛しているのだと知ると嬉しくなりましたね。
そういえば、写真撮影を趣味としている僕はそれを活かせるために「写真部」に正式に所属したのもこのころです。
また、同じ方向に帰る友達も現れました。


6月
ちゅうしょくTIMTIMがまだそう名乗っていないころ、彼が「学食のメニュー全てをみんなで喰いたい」と言い始め僕たちはそのプロジェクトを敢行しました。全てそれを食べ終えたときそこにはもう一つの段階を踏んだ友情がありました。
高校時代の友達と姫路のゆかた祭りに行ったとき、大学の帰りに急に決まったことでもあったので僕は姫路の街中でその友達に「土下座して謝らんかい」とキレてしまっていました。あの時はご迷惑をおかけしてすいませんでした。
そして、このころ『ちゅうしょくTIMTIM』という名前が生まれました。きっかけは部員の一人が着てきた『タイタンの冒険』のTシャツからです。そこからある団員が下ネタに変え、それをもじらせるためにTIMTIMが使われたのです。そして、いつも同じ場所で昼食を摂っていたこともありこの名前がつけられ、一つのチーム名・団体名として確立されたわけです。
そういえば、このころの僕の髪はパーマをあてていました。これは髪が傷み、また、自分には似合わないことが分かったのでこの髪型はやめにすることにしました。


7月
春学期を終わりを迎え、大学生活にも慣れ、悠々自適な生活を送っていたころです。7月の上旬、団員の一部と神戸ハーバーランド・メリケンパークで大掛かりなかくれんぼをしたことがありました。僕は途中からの参加でしたがなぜか懐かしい思いが馳せ巡りました。その後に見た神戸の夜景は素晴らしいものでした。神戸出身の奴らも感慨に浸っている様子でした。
そして、大きな出来事と言えば海の日にやった『海の日プロジェクト』でした。これは団員が海パンで昼飯を食べるという言わば、TIMTIMの名前を知らし渡るための手段でした。みんな海パンで学校内に居り、中には仮装をする者もあらわれたほどです。しかし、学生課から注意を受ける結果となりました。
また、このころ同じ趣味を持った人と友達となりました。その人ともう一人の友達とで京都で行われていた『大関ヶ原展』に訪れました。その後、二条城・東山界隈を巡り、高台寺では庭園を見ながらその人と自分の過去について話し合っていました。のんびりとした時間が流れていました。高台寺は豊臣秀吉とその正室・高台院(北政所)の墓所。当時としては異例の恋愛結婚でした。その出会いの地、僕は神から授かった人とその人のことを思いました。
飛行機を趣味としている友達の影響で伊丹空港に飛行機撮影をしに行ったこともありました。千里川沿いは飛行機の着陸地点で一番近く飛行機が撮れる場所です。友達達も飛行機が着陸するようする様子を写真に収めては歓声を上げていました。


前編はこれで終わりです。次は8月~11月になるでしょう。それをまたお楽しみに!!





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やっと取得できたもの
今月の14日、僕は明石の試験場で普通自動車の免許の試験を受けてきました。
ややこしい問題・間違いやすい問題などもあり試験の時は本当に大変でした。
試験終了から約15分後、モニターに合格者が出てまいります。僕はそのモニターに出てきていました!!
僕も晴れて自動車に乗ることができるようになったのです!!
約1か月半、教習所に通い頑張った成果がここで出せて本当にうれしく思いました。
しかし、車に慣れるにはまだまだ時間がかかります。今は親からの教習を受けています。
できるだけ運転がうまくなるように頑張りますので応援よろしくお願いいたしますm(__)m
運転免許証


親との高校卒業旅行(二日目)Ⅱ
奥の院から約2㎞続く参道には前項にあるように古い墓が沢山ありました。その参道を過ぎれば一の橋と呼ばれる場所に到着します。一の橋は高野山の門前町のような雰囲気を醸し出している場所で、様々なお土産店や食事処・バス案内所などがあります。そこから西方向に行けば宿坊と呼ばれる寺院兼宿の場所が点在します。
その一の橋からバスに乗り4停留所ぐらい行き着けば千手院橋と呼ばれる地点にたどり着きます。ここも高野山の門前町なのですが一の橋よりは開けている気がします。
高野町門前風景Ⅰ
千手院橋から西方向に向かうとこのような道に行きつくことができます。ここは金剛峯寺の門前町となっており様々なお店がこの辺りに集中しています。
金剛峯寺
さて、真言宗の総本山・金剛峯寺に到着しました。弘法大師空海が唐から伝えた真言密教はこの地が中心となり農民たちに広まっていきました。
高野山ではこの1200年間様々なことが起こりましたが座主(真言宗・金剛峯寺のトップ)などが尽力したおかげで人の手によって焼かれたりすることはありませんでした。しかしこの山中、雷にあたって全焼するというような自然的なものはこの1200年間何回も続きました。色々な試練がありつつ高野山を愛する人々は多額の資金を出し寺の再建を願いました。
金剛峯寺鐘楼
こちらは鐘楼。鐘楼とは時などを知らせるための鐘のこと。1860年に火事で全焼してから1864年に再建されました。現在の鐘楼は1864年に建てられたものです。
金剛峯寺境内Ⅰ
金剛峯寺と言われる場所は思ったより狭かったものの、屏風・庭園・石庭によって心が洗われるようです。
お茶と煎餅
茶堂と呼ばれる場所に行き着けば、門徒さんがお茶を出してくださいます。その昔、空海は中国からの文化のものであるお茶を好んで飲んだとか。このお茶の文化は平安時代・鎌倉時代と時を経つごとに武士からの支持を仰ぐものになりました。臨済宗を作った栄西は「喫茶養生記」と言われる本にお茶のたて方などを紹介しています。
しかし、お茶は比叡山・高野山では修行の糧になるように(中には一週間寝ずの修行があるとされる)眠気覚ましとして好んで飲まれたそうです。
この茶堂にいると、名古屋から来たという観光客たちが入ってきてそれと同時に尼さんが入ってこられ説教をし始めました。しかし、その説教は分かりやすく素晴らしいものでした。


わんぱくだったその尼さんは高校時代、修学旅行でここ高野山に訪れある宿坊に泊まりました。しかし、まだ仏の教えなど分からない年頃、尼さんはその宿坊で枕投げを友達と一緒にし始め、その枕で障子や屏風を傷つけました。親はもう一回尼さんを引き連れ宿坊の住職にそのことに対し謝らせました。しかし、宿坊の住職はそのことに対しては全然怒っておらず「子どもというのはわんぱくなもの。これは仕方のないことだ。私はそれについては許している。しかし、あなた(尼さん)はもう一回高野山に来る運命にある。もう一回高野山に来るのだ」とおっしゃったそうです。
それは運命の出会いでした。尼さんは高校卒業後高野山に来てその宿坊で住職の弟子として働くことになるのです。


石庭Ⅰ

石庭Ⅱ
石庭は数ある寺院の中でも広く取られているほうでしょう。
台所Ⅰ
こちらは金剛峯寺内にある台所。昔はここで修行僧のための食事が作られていたそうですが今は特別な時にしか使われていません。
台所Ⅱ
昔はこの金剛峯寺にたくさんの僧侶がいたであろうことを感じさせてくれます。
金剛峯寺Ⅱ
こちらは金剛峯寺の大玄関。ここから入ることができたのは天皇・皇族・高僧しか入ることができませんでした。現在でもここから入ることはできません。


ここから少し南側に行けば高野山の重要文化財が揃う高野山霊宝館があります。
高野山霊宝館
高野山霊宝館は日本の民間博物館の中でも古い博物館。1920年に建てられた本館は国の登録有形文化財として登録されています。ここには高野山に関係する物品が計5万を超えるといわれます。その中には国宝・重要文化財が沢山あります。
展示されている仏像は穏やかな顔で佇んでいます。その様子はまさに荘厳で素晴らしく優美なものです。お経の経典のなかには金で書かれてあるものもあります。それは平安時代に書かれたもので約800年ほどたった今でもそれは剥げておらず、それを見れば高野山の歴史が映像として目に映りこんでくるようです。


霊宝館を出て少し行くと壇上伽藍に行き着きます。この場所こそ高野山の聖地。奥の院以外で弘法大師に対するさまざまな儀式が行われている地域です。
この壇上伽藍にある建物は雷にあい古から遺されているのは不動堂しかありませんが、それでも高野山の荘厳な様子は垣間見ることができます。
不動堂と根本大塔
根本大塔

その中でも根本大塔は816から887年ごろに作られたとされており、高野山の看板の一つになっており教科書などでも紹介されるほどの建物です。この建物は真言宗の象徴となっている建物であるそうです。
壇上伽藍金堂
壇上伽藍の中にある金堂は平安時代半ばから高野山の象徴すべき建物として重要な役割を果たしてきました。大体の祭事はこの金堂で行われます。今の建物は1932年に建てられたものですが江戸時代の壇上伽藍金堂の様子を忠実に再現し、ここのご本尊・薬師如来(秘仏)は「道程」や「智恵子抄」などを書いた詩人の高村光太郎の父・高村光雲によって作られたものです。


壇上伽藍を後にした我々は金剛峯寺前に到着しました。
高野町門前風景Ⅱ
ここからバスに乗って南海高野山駅へと戻ります。
高野山大学
遠くに見える近代的な建物は高野山大学です。日本で2番目に高い場所にある大学として有名です(高野山自体ある場所が800m付近)。
時計塔
こちらは金剛峯寺前にある時計塔。福島正則が父母の弔いとして1618年にここに建立されました。福島正則と言えば賤ヶ岳7本槍の中の一人で関ヶ原の戦いでは東軍で大活躍を果たした武将です。
江戸時代のころ、時間は寺院の鐘で知らせていました。現在でも朝の6時から夜の10時までの偶数の時間にこの鐘が鳴らされています。


高野山ケーブル
南海の高野山ケーブルが上がってきました。次はこれにに乗って極楽橋駅へと下ります。
極楽橋駅駅表
極楽橋へと下ればあとは特急に乗り家路につくだけです。
南海極楽橋駅付近にある川
極楽橋駅は自然に囲まれた静かな駅。一見、高野山に来たことを迷わせます。まあ、高野山自体自然の中にできた天空の街ですからね…。
南海極楽橋駅ホーム
木造りの駅舎は自然と本当によく似合います。
特急こうや
さて、これから特急「こうや」で終点のなんばまで向かいます。
南海高野線極楽橋駅駅表
ここからなんばまで向かう路線が南海高野線です。
特急こうや車内
特急「こうや」の車内はこの日僕たち家族ともう一人の2人組しか乗っていませんでした。まあ、平日ですから仕方ないことでしょうが…。
この日、疲れ切っていた僕は40分ぐらい深い眠りに落ちました。そしてそのあと家路についたのでした。

それじゃ(^^)/

親との高校卒業旅行(二日目)Ⅰ
二日目の朝になり我々は目をさまし、朝風呂をしたあとでのんびりと過ごしました。この日は本命である高野山参拝の日。
特急こうやに乗って参拝に行くつもりです。でも、その前に旅館探検(笑)
河内長野東側
河内長野駅の東側はこのようになっています。なんて起伏の激しい土地なんでしょう。
部屋の一室
部屋の外側はこのようになっています。朝の河内長野の街はもっとも明るく見えました。
部屋
汚くて申し訳ありませんm(__)mしかし、結構広い部屋に泊まることができました。値段は一人朝夕ついて12000円ぐらいだったかな…。でも、高野山に近くて(近くもないか…)いい場所であるのにかかわらずこのような値段で済むとは…少し驚きです。
河内長野朝の風景
8時前に旅館中に放送が流れます。「おはようございます。今朝のお目覚めはいかがでございましょうか?さて、朝食の用意ができましたので朝食会場にお越しください」と。
来てみれば、僕たち以外まだいませんでした。しかし、あとの人々合わせこの日は4グループしかいませんでした\(◎o◎)/!しかも、俺らと韓国人観光客以外は全員お年寄り…。どういう朝食会場だよ…。
また、係員さんは一人しかいなかったし…。しかし、対応や手際が良く難なく事は運んでいましたが…。
朝食
しかし、朝食は素晴らしくおいしいものでした。左側奥に置かれている焼き物は、アルミホイルの上でベーコンエッグを自分で作って食べてくださいというもの。もちろんおいしかったです。しかし、自分のは黄身が隠れてしまっていましたが…。
味噌汁とごはん
味噌汁とごはんはお代わり自由。僕と父はごはんをお代わりしていました。また、味噌汁は僕がお代わりしました。それほどおいしかったということです。
また、ツイッター上では公表してございますがこの後無料でコーヒーのサービスがついてきます。コーヒー好きの僕からすれば最高なサービス。親子共々コーヒーは大好きなのでゆっくりと味わいながら飲ませていただきました。


一夜お世話になった河内長野荘をあとにし河内長野駅に向かいます。実はこのお宿、近道を使えば徒歩で8分で到着する宿なのですが、到着した時にはもう日はとっぷりと暮れており、迷いやすいと思った我々はタクシーを使ったのでした。
河内長野駅へ向かう道
マンションと住宅街が重なり合います。宿自体は高台にあるので急な坂道を下らねばなりません。しかし、ほとんど電柱がない道すがら、夜にこの道を行っていたら絶対迷っていたに違いありません。
住宅街や民宿などがある場所を通り抜けると河内長野を南北に走っている川が見え始めます。
黄金橋と河内長野荘
その皮を通っている橋を黄金橋というのですがどこが黄金橋なんだか…。ちなみに、あの高台にある建物が泊まった河内長野荘です。


南海河内長野駅に特急こうやが到着します。この日、河内長野駅から乗った客はたぶん僕たちだけでしょう。言っても平日の朝、すぐ近くの高校に通っていると思われる学生たちが普通電車や急行電車などから続々と降りてまいります。
特急こうやは南に向かい走り出します。1号車は平日の割に人が多く感じられました。高野山に参拝に行かれる方々が多いのでしょう。
電車はトンネルを過ぎれば和歌山県に入ります。紀伊山地の奥深くから出てきた電車は一旦平地を走ります。紀ノ川から作られた橋本の街を過ぎれば電車は複線から単線に変わり、また紀伊山地の奥深くに入っていきます。高野山自身標高800m付近に作られた宗教都市ですから仕方ないのかもしれませんが…。
しかしながら、昔の人はこんな山奥深くによく鉄道を敷いたなぁと思ったのは僕だけでしょうか?地理に長けていても絶対にあんな所迷うにきまっているでしょうに…。
和歌山県東部は平地があまりありません。だから、家も高台に山を切り抜いて作られたものばかり。中には山の中腹や頂上近くに家がある場所も見受けられます。あれを登ってあの家に行き着けと言われれば絶対に時間がかかります…。
電車は段々山奥に入り、ついには自然だけの土地に入ります。そして、南海高野線の終点・極楽橋駅に到着。
特急こうや
特急こうやは橋本からの山道を40分近く使って登っていきます。この極楽橋駅は約標高400mに作られている駅です。これからケーブルを使って標高800mの場所にある高野山駅へと向かいます。
高野ケーブル車内
このケーブルは南海鉄道が直轄しているためイコカやピタパが使えます。このケーブルを使って約5分で高野山駅に到着します。
南海高野山駅
この高野山駅から高野山霊場へと向かうバスが出ています。人々はそれに乗り高野山へと向かいます。


高野山は翌2016年で開創1200年を迎えます。高野山はご存じのとおり、真言宗の総本山として知られています。
真言宗は空海(弘法大師)が唐(現 中国)に留学しその時の学問を教えたものです。これは最澄(伝教大師)が伝えた天台宗と一緒です。
816年、空海は時の帝醍醐天皇から高野山の土地を与えられ、この地に真言密教(真言宗)を広めるために寺院を建てることを懇願。また、空海はこの高野山に宗教都市を作ることを懇願し建立されたものです。しかし、山深い森の中、寺を建てることは容易ではありませんでした。また、高野山は幾多もの危機を迎えます。
994年、雷が原因の火災で寺領が焼けてしまい数々の僧たちは下山していきました。しかし、藤原道長や白河天皇・鳥羽天皇が参詣に訪れ高野山の名誉と寺領は回復。また、北条政子は夫 源頼朝の供養のためにここ高野山に金剛三昧院を建立しました。
時は流れ戦国時代、平安の世から寺領や荘園を守るために僧兵という人たちはいたのですが浄土真宗などの一揆により大きな寺院は僧兵の数を増やし敵が来るのを待っていました。時はもう仏のない時代、松永久秀により東大寺は焼かれ、織田信長によって比叡山延暦寺が焼き討ちされていました。織田信長は高野山金剛峯寺を延暦寺と同様に焼き討ちしようと仕掛け、金剛峯寺と対抗が続きました。1581年、信長に謀反を起こした荒木村重の家臣が高野山に逃げたことを聞きつけた信長はその家臣たちを引き渡すように求めましたが、金剛峯寺側はこれを拒否。信長軍は抵抗していた僧兵たちを殺し続けたといいます。しかし1年後、信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀に殺され高野山攻めは終わったかと思われました。しかし、そのあとを引き継いだ豊臣秀吉は寺領を返せなどと金剛峯寺に圧力をかけましたが、高野山のある僧が秀吉に服従を誓い、高野山の寺領は取り上げられませんでした。
そのあと、関ヶ原の戦いの西軍側の兵士(浪人)たちが大坂の変(冬・夏の陣)まで隠れ暮らしたりしましたが、彼らは大坂冬・夏の陣で死去。そのあと、徳川家が高野山を菩提寺として定め各諸大名は奥の院周りの参道に墓を作りました。
明治時代になると、今まで女禁制であったのが解禁され誰からも親しまれる寺院となりました。
そのため、現在高野山の入り口付近に女人堂と呼ばれる御堂が遺されています。その昔、女の人は女人堂から先へ行くことは許されずここで念仏を唱えたといいます。
そして、現在高野山は日本の宗教都市としての役目を果たしているのです。


奥の院バス広場
高野山の奥の院周りはこのような町が形成されています。この辺りは御土産屋など様々あります。
こうやくん
高野町のマスコットキャラクター・こうやくんがお出迎えします。
花菱アチャコの墓
祖母にしか聞いたことない漫才師・花菱アチャコ氏の墓です。今から約60年ほど前に流行ったとされています。
奥の院参道Ⅰ
奥の院参道Ⅱ

奥の院の参道にはこのようにたくさんのお墓が作られています。また、自然と調和している様子はまさに趣があるといえるでしょう。この参道は約2㎞続きます。
奥の院(弘法大師・空海墓所)
この橋を渡れば仏の区域。ここから先は撮影することは許可されません。一回礼をして中に入りましょう。木の奥に見える建物こそ奥の院です。中に入ればお坊さんの素晴らしい読経。心が静かになりそうです。そして、この奥の院の裏側は弘法大師・空海の霊廟があります。金剛峯寺や奥の院では現在も空海が生き延びていると考えます。そのため朝・夕の食事は欠かせません。そして、奥の院を離れこの橋を渡りきった後で奥の院の方向に目を向ければ、空海が手を振って「また来たまへ」と言っていると考えます。
我々はその人に向かって礼をしなければならないのです。ありがたいという気持ちを持たなければならないのです。
空海は「日本国民すべてを助けよう。たとえ、宗派・宗教が違うとも。そのための入滅(死去すること・お坊さんの死ぬときの言い方)だ」と言ったとされます。我々は高野山に行けば弘法大師のオーラが受け取れるかもしれません。いや、オーラを受け取るべきなのです。


奥の院の参道にはいろいろな人の墓があります。今日はその中にある一部をご紹介します。
高野山奥の院の参道にはあまたの墓が点在しますが、ほとんどは仮墓と言い骨は入っていません。しかし、昔の人々は弘法大師・空海に後の世まで子孫を救ってほしかった。また加護を受けたかったのでしょう。
結城秀康の墓
こちらは結城秀康という人の墓。1574年、遠江国浜松(現在の浜松市)で徳川家康の次男として生を受けます。このころの松平家(徳川家)は織田家に仕えていたのですが、長男(秀康から言えば兄)の松平信康が1575年の長篠の戦の大将・武田勝頼の手紙を受け取っていたとして謀反の罪を被せられ切腹。息子の信康が亡くなった以上結城秀康の家督は決まったかに見えました。しかし、父家康はどうも結城秀康のことが好きになれなかったのです。それは信康との双子だったのが原因でした。当時、双子は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われていたのです。
1584年、小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦うことになってしまった家康は、秀吉と和解するための道具として秀康を豊臣家の養子にしてくれまいかと頼みに行ったのでした。秀吉はこれを和解し秀康を養子(実際は人質)として育てることになったのです。
1589年、下総国(現在の千葉県北部)の一族・結城氏に養子入りし結城氏の跡取りとなりました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、淀君や豊臣秀頼が推していた西軍には入らず、実の父が総大将を務めていた東軍に入ることにし実の父の天下取りのために働きました。彼は関ヶ原の戦いには参加していませんがそれと一緒の時期に戦っていた西軍の上杉景勝を倒すために尽力を尽くし、留守居役として上杉景勝を圧伏させたのでした。
関ヶ原の戦いのあと、彼は実の父から越前(福井県東部)の土地を与えられ、松平の姓を名乗るようにと言われることになります。家康はここで秀康を一一族と認めたのでした。1607年、伏見城を守る役職である「伏見番」に就任しましたが、秀康の体はこのころには蝕まれており、その何か月後に越前で亡くなりました。享年34。死因は梅毒ではないかと言われています。
そのあと、結城秀康の家系は幕末まで続き、幕末の四賢候(松平春嶽{福井藩}・島津斉彬{薩摩藩}・伊達宗城{宇和島藩}・山内容堂{土佐藩})と呼ばれた殿様勢に入り権威を確かにしました。また、津山藩(岡山県)・福井藩・松江藩などの結城秀康系の松平家は親藩大名の中でも家格が高く、これは結城秀康の活躍あってこそだったのかもしれません。
豊臣家墓所
こちらには豊臣家の墓もあり(誰も入っていない)、秀吉をはじめ寧々(北政所と呼ばれることが多い)・淀君・秀頼などが眠っています。しかし、寧々と秀吉の墓は京都東山の高台寺というお寺にあるのですが…。
正室寧々(高台院)と秀吉は当時では珍しい恋愛婚です。当時秀吉は苗字もないただの信長の付き人にすぎませんでした。(最近では忍者{当時でいえば間者}であった説がある)しかし、寧々は自分の母親の反対を押し切って結婚してしまいます。その時寧々は14歳でした。秀吉は木下家に養子としていることを許され木下藤吉郎と名乗るようになります。
そのあと、寧々は秀吉が関白になっても裏で支え続けました。
脇坂家墓所
こちらは脇坂家の墓です。あまり知られていない家ですが、小早川秀秋らと一緒に西軍から東軍へ寝返りをした家なんです。脇坂安治は最初浅井家に仕えていましたが、姉川の戦いで浅井家が滅んだあとは織田家の家臣として明智光秀の家来となり功績を残しました。そのあと、秀吉の家来となり、秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いでは、福島正則・加藤清正・加藤嘉明らとともに賤ヶ岳七本槍の一人として知られ、槍の名人として名を残し大活躍を果たします。
そのあと、九州征伐や朝鮮征伐などをしに行きますがその途中で秀吉は死去。安治は石田三成に唆され、最終的に西軍として参加するのですが、この時東軍の藤堂高虎と密約を結んでおり、安治は小早川の陣をじっと見ているほかありませんでしたが、小早川軍が動き出すと朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らと一緒に東軍のほうに合流したのでした。西軍の石田三成はこの時小早川が徳川に向けて出陣したと考えていたのですが、三成の親友であった大谷吉継が狙われたのを知り、そのあと脇坂安治が東軍に寝返ったことを知ったのでした。これのおかげで、大谷軍は壊滅し大谷吉継は割腹自殺・小西行長や石田三成は逃亡を図ったのでした。
そのあと、小早川秀秋らとともに徳川家康から褒美を与えられ、大洲藩(愛媛県)の初代藩主となりました。そのあと、大坂夏の陣では大活躍を果たし、そのあと息子に家督を譲り隠居したあとは京都の寺で僧侶となって悠々自適の毎日を送りました。そのあと、脇坂家は龍野藩(兵庫県たつの市)を与えられ、徳川家のために働いたので外様から準譜代・そこから譜代大名へと異例な出世街道を築き、幕末まで龍野藩を任せられることになります。
織田信長・筒井順慶の墓
織田信長は大体のことは分かっているでしょうからここでは申し上げませんが、この墓は誰によって作られたかいまだに分かっておらず謎とされています。その隣の筒井順慶は大和国(奈良県)を治めていた戦国大名です。
しかし、当時の大和国は松永久秀の勢力が強く筒井家は厳しい状態にありました。1565年、松永久秀が彼が住んでいた筒井城を狙い奇襲を仕掛けたので彼は逃亡。松永久秀ともう一回戦うために戦力を保持していました。
1566年、三好三人衆と呼ばれた人たちと結託し松永久秀から元の居城・筒井城を奪還します。
1568年、彼は足利幕府の15代将軍(16代将軍)として足利義昭を支持。彼を将軍とすることに成功しましたが、この時織田信長との対等が厳しくなっていましたが、筒井順慶は幕府を守るために戦い続けました。しかし、最終的に室町幕府は滅び、彼は明智光秀・佐久間長盛らとともに織田家に仕えることを伝えたのでした。
1582年、織田家の跡取りを決める清州会議に出席した彼は秀吉らとともに三法師を跡取りとして推しました。そのあと、小牧長久手の戦いでは病気を押して参加したのですが、無理がたたったのか亡くなってしまいます。
筒井順慶は文化人としても知られ、茶道などに秀でており仏教を信じる心は並大抵なものではなかったと言われています。
石田三成墓所
こちらは石田三成の墓。関ヶ原の戦いの西軍の事実上の大将でしたし、豊臣政権の時代は五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)の中に入っていたことで知られています。豊臣家ラブのところがあり徳川家康などから妬まれるようになり、関ヶ原の戦いの原動力となってしまいました。戦後、自分の城である佐和山城も狙われ変えるところがなくなってしまった彼は森の中で過ごしたのですが、そのあと見つかってしまい京都の六条河原で小西行長・安国寺恵瓊らとともに斬首させられました。
武田信玄・勝頼墓所
こちらは甲斐国(山梨県)を治めた武田家の墓。武田信玄といえば川中島の戦いで上杉謙信と刀を交わらせたことで有名ですね。勝頼はその息子ですが、信玄とは対称的な性格で知略家ではなく全軍攻撃を仕掛けるようなタイプだったと言います。1575年の長篠の戦いでは武田の騎馬隊がいれば我が軍は大丈夫だと考え騎馬隊の全軍攻撃を指示しました。
しかし、織田軍は新兵器を用意していました。鉄砲です。武田軍は鉄砲の出現で『武田の騎馬隊は日本一』と言われていたものが消えてしまい武田軍は殲滅させられています。そのあと、勝頼は自刃し武田家は滅亡しました。
伊達政宗墓所
遅れてやってきた天下取り・伊達政宗は1567年出羽国(山形県・秋田県)の米沢で生まれました。6歳のころ、天然痘にかかったために右目を失明。そのあとは隻眼をつけたとしてその様子を見た人々は彼を独眼竜と呼びました。
1584年、畠山吉継は父・伊達輝宗を拉致。政宗は吉継を殺して輝宗を助けようとしますが「俺と一緒に吉継を殺せ」と言われ仕方なく父を吉継と一緒に殺したのでした。(政宗の父の殺害陰謀説もある)
1590年の小田原合戦では人々より遅れて伊達政宗は到着。秀吉はそれに対して怒っていたのですが、伊達政宗の恰好を見て秀吉は感嘆したという話が残されています。彼は白装束に十字架をかついできて「俺を殺せ」と言わんばかりの行動を示したのですから。
1593年の朝鮮征伐(文禄の役)のとき、伊達政宗は家臣たちに非常に豪華絢爛な戦装束を着させそれを人々は派手な装いを好んだ人たちに対し「伊達者」というようになったんだとか。
1600年の関ヶ原の戦い(彼は同時期に行われたもう一つの戦いである長谷堂城の戦いに参加していた)では、東軍に組し最上義光らとともに上杉景勝討伐を掲げ戦いました。そして関ヶ原の戦いで東軍の勝利の報告が届いた後彼らは後退。
家康は政宗に今までの土地である仙台を統治するようにし、政宗はそのあと仙台の街づくりに取り掛かり青葉城(仙台城とも呼ばれる)仙台藩を作りました。また、政宗は支倉常長などを欧州に派遣し世界と交流を図りました。この一行を慶長遺欧使節と言います。彼らはローマに訪れ教皇に挨拶をしたと伝えられています。
また、徳川家康亡き後秀忠・家光の補佐役を務め、特に家光には爺と呼ばれるほど信頼が厚かったといわれます。
1634年に70歳で亡くなりました。
吉川家墓所
吉川家は江戸時代時は長州藩の支藩の岩国藩を治めた家です。この家は関ヶ原の戦いの時、全然自分の陣から離れず何をしたかったのかわからない家として知られています。現在歌手の吉川晃司さんはこの吉川家の祖先にあたります。
吉川広家は1561年に生まれました。小さいころはうつけ坊主として知られ、礼儀作法がなっていないとして注意された書状が残されています。1586年、彼は吉川家の当主となり九州征伐に出かけ功績を果たし、また毛利家を支える手腕が認められ出世を果たしました。
関ヶ原の戦いでは唯一どっちつかずの采配を取り、西軍の武将が来たときには「今から別当(今でいう弁当)を食べる」と言って要求を退けました。広家は実はこのとき黒田長政を通じ徳川家康と内通していたと言われています。だから徳川を狙うと自分が危ういと思い戦いをしなかったのでしょう。また、吉川家と毛利家は関ヶ原の戦いでは全然陣から動いていなかったとされ、石田三成や小西行長や大谷吉継・安国寺恵瓊・宇喜多秀家などから苛立ちの声が上がったとされています。
そのあと、西軍の総大将・毛利輝元がいた毛利家は家康から安芸国(広島県)の領地を取られ周防国(山口県)だけが与えられ、毛利家は萩城を長州藩の支庁として定め入場しました。吉川氏はその時に岩国を与えられ長州藩の支藩・岩国藩を作り現在の山口県岩国市の礎を築きました。
蜂須賀家墓所
蜂須賀家は阿波国(徳島県)を治めた外様大名です。蜂須賀小六は秀吉を武士として成長させた人物で秀吉が亡くなるまではご意見番として秀吉に立ち向かって意見の言える武将の一人でした。だから、秀吉を木下藤吉郎時代から見ていた古くからの家臣だったのです。ほかに前田利家などがいるのですがこれは置いておきましょう。
1585年、秀吉から長宗我部盛親の守り役として阿波国が与えられましたが小六は大坂城外で1586年に亡くなっています。
そのあと、息子の蜂須賀家政が徳島藩を作り初代藩主になります。蜂須賀家は徳島の人々に質素倹約を申し伝え、贅沢をすることを禁止させました。しかし、質素倹約では領民の息が詰まってしまいます。そのストレス解消から始まったのが阿波踊りだといわれています。
そのあと、蜂須賀家は幕末まで徳島の地を離れず最後の藩主・蜂須賀茂韶は貴族院議長や文部大臣を務めました。
酒井家墓所
酒井家は徳川家に岡崎時代から仕えていた家柄で譜代大名です。いろいろな所に酒井氏は藩を置きましたが、幕府の最後の大老となったのが酒井忠績(さかいただしげ)でした。彼は播州姫路藩の藩主でした。彼は西洋式軍制の設置など最後の幕府の仕事を果たしました。一方、1864年に尊王派に人々を幽閉した甲子の変と言われる事件も起こしています
そのあと、彼は明治新政府で男爵の位をもらい永世華族の位が授けられ貴族院の議員の一員として参加することになりました。

ここでは奥の院・その奥の院にある一部の墓の説明などを行いました。次は金剛峯寺・根本大塔など高野山の中心部の話をここに書き著します。

それじゃ(^^)/

親との高校卒業旅行(一日目)
2015年3月8日~9日、我々はこの2日間、金剛山と高野山に行ってまいりました。
朝10時前の電車に乗り、新今宮駅で南海の区間急行に乗り換えました。しかし、これが誤算を生むことになりました。
区間急行は堺市東区の北野田という駅までは急行の停車駅でしたがそこから先は各駅停車へと変わってしまったのです。
僕は案じました。親は怒りはしないかと。
しかし、そこから先は大阪狭山市の付近を通っただけですぐに河内長野市に入ることを知り、胸をなでおろしたのでした。
河内長野駅前
河内長野の街はどちらかと言えば郊外都市といえる街でした。
河内長野駅前商店街
日曜日の昼、人通りの少ない商店街。それでも食べ物屋はないか探すと、この商店街を出た場所にありました。
丸福
丸福さんです。こちらのお店は夜は居酒屋・昼は定食屋として営業をしており、この日はたくさんの人々が来ていました。たぶん、隠れ家的な居酒屋なので常連がついていそうなお店です。
中華風とり天定食
僕は定食の名前を聞いたとき変わっているなぁと思った中華風とりから揚げ定食をいただきました。すると、これがうまいのなんの。あつあつなのも相まって最高のおいしさです。味噌汁は具沢山。それにまた、ごはんと味噌汁はお代わり自由と言っているのですからたまげたものではありません。
酒のため置場
やはり、夜が居酒屋だけあって焼酎がたくさん置かれていました。貯め置きをしている人も見かけられました。
僕たちの隣に座った3人組は昼にもかかわらず「かんぱ~い」と言ってビールを飲んでいましたが昼帰りの職業なのでしょうか。彼らは僕たちと同じような定食を取っていましたが、殊に満足そうに食べていました。


河内長野駅前
河内長野駅前からバスが出ます。我々はこれから奈良県と大阪府の県境にある金剛山(海抜1125m)へと向かいます。くねくねとした道や小さい集落を通り抜けトンネルを過ぎれば、大阪府で唯一の村・千早赤阪村に行きつきます。その千早赤阪村を東に進めばバスの折り返し地点が見えてきました。ここが終点、金剛山ロープウエー前停留所です。しかしながら、我々は急な坂道を10分程度登らされました。その坂道を過ぎれば上にロープが見えてきます。係員の放送も聞こえます。
金剛山ロープウェー・千早駅
その場所こそ金剛山ロープウェーの千早駅です。全国で唯一村が経営しているロープウェーです。
金剛山ロープウェー
千早駅にロープウェーが到着します。見てみれば1993年製のもの。少し古い気がします…。
ロープウェー車内
ロープウェーが出発すれば大阪平野・奈良盆地・紀伊山地などが見ることができるのですが、この日は天候が悪くあまり見ることができませんでした。
ロープウェーの上側の終点・金剛山駅はもう奈良県が目と鼻の先の場所。その先は奈良県御所市に入ります。
金剛山風景Ⅰ
金剛山風景Ⅱ
少しロープウェー駅から上がった展望台。そこで撮った大阪府方向。紀伊山地の深い峰が分かります。これが和歌山県の橋本市付近まで続くことになります。
大阪府最高地点
ここは大阪府最高地点である1053m地点です。大阪府ではここより高い地域はないということになります。
この場所から歩きで30分ほど経てば神社が見えてきます。この地域はもう奈良県の御所市に入っているのですが奈良に入っていることなんてつゆ知らず、僕たちは山道を歩き続けました。
葛木神社鳥居
その神社は葛木神社。この神社の区域が金剛山の頂上なのですが我々は入ることのできない区域になっています。
葛木神社
また、ここには百度石というものが置かれています。昔の人はここでお百度参りをしていたのでしょうか?
転法輪寺
この葛木神社を下れば次は寺院が見えてきます。ここは転法輪寺というお寺で創建は飛鳥時代、修験道を確立した役小角(えんのおづの)という人物が作ったとされています。行基・最澄(伝教大師)などの高僧もこの寺院に訪れ修行をしたという歴史を持っているお寺なのですが、明治時代の廃仏毀釈により仏像がどこかに持っていかれ、寺としての歴史は潰えるはずでした。しかし、昭和に入ると日本国憲法やマスコミの影響などで転法輪寺は再開。仏像も帰ってきたのでした。
この寺は葛城修験道の本山だとも言われています。
売店のコーヒー
寺の隣には山小屋のようなお店があります。小屋の中は温かくしてあり、冬に山道を登ってきた人にとっては至福の場所となっていることでしょう。ここでコーヒーをいただきました。山の頂上で飲むコーヒーはおいしかったです。
金剛山山頂
ここからは河内平野が見えるとのことだったのですが霧がかかっており下の風景は全然見ることができませんでした。
実はこの場所、歴史的背景も関係する場所だったのです。
時は南北朝時代、この地を治めていた楠木正成は1332年にこの広場に城を作り南朝を助けようとしました。その城を国見城と言います。ここは河内・摂津などの国の様子がよくわかる地点で敵が来ていることなどもいち早くわかる場所だったのです。楠木は金剛山のふもとにある千早城に本陣を置き、この場所を砦として幕府軍を蹴散らしたと伝えられています。
楠木家はもともと鎌倉幕府の重要な一家として知られていたといい、正成自身も執権・北条高時に重宝されていたようですが、幕府の終わりを感じ時の天皇・後醍醐天皇の倒幕計画隊に参加し、後醍醐の寵愛を受け楠木は彼のために働こうと決意したのでした。
 この場所から山深いところに入り40分ほどたてばロープウェーの駅に行き着きます。我々はそれに乗ると雨は止みこのような風景が顔をのぞかせたのでした。
大阪平野
河内平野・大阪平野、天気のいい時は瀬戸内海・淡路島などが見えていたのかもしれません。
バスターミナル
ロープウェーから降りてトイレに行こうと思っていたとに乗ろうと思っていたバスは行ってしまい、ここで我々は1時間待たされることになってしまいました。しかし、自然に感じられているとすぐに時間は経ち河内長野駅行の最終バスが到着したのでした。しかし、山の中は漆黒の闇と化していたのでした。


30分ほどで河内長野駅に到着し、そこから暗くなっていたのもありタクシーで宿に向かいました。
河内長野荘
その宿は河内長野荘。いくつかの候補の中でいいかなぁと思い選んだのがこの河内長野荘です。
河内長野荘ロビーⅠ
中に入れば本当にきれいでした。河内長野にはこのような宿が結構あると聞き及んでいたのですが、ここが一番かもしれません。
客室は3階だけしかありません。言わばミニ旅館ということができるでしょうか?
ロビーⅡ
落ち着いたロビーはこの旅館の素晴らしいことを暗示させてくれそうです。
選択制浴衣
浴衣はこの中から選ぶことになっています。好きな柄と好きな大きさを選ぶことができます。

料理がやってきました。それではご紹介してまいります。
前菜
こちらは前菜。山の幸を使った前菜です。左側はワケギとユリ根が入っており似合うかなと思いましたが結構合っていたので驚きました。
お造り盛り合わせ
お造りの盛り合わせ。食べれるかなと思いましたが3人寄れば食うことができました。
天ぷら・鮭のムニエル・ステーキ
洋食のようなメニューですがすべてこれがおいしい。特にさつまいもの天ぷらが素晴らしく甘いんです。また、ステーキも骨の部分がすぐに取れるようになっていてしゃぶらずに済みましたし、またこれがとてもおいしかったんです!!鮭のムニエルも素晴らしくおいしかったですよ。
しゃぶしゃぶ具材
しゃぶしゃぶもありました。このしゃぶしゃぶの出汁は最高。料亭の味です。これを卵につけて食べるというから驚きです。
肉としゃぶしゃぶ
この肉おいしかったなぁ。汁も何倍も飲んでしまったし。しかし、卵はこれでも余ってしまいます。しかし、この出汁と卵に合う食べ方があります。それは…
卵かけごはん
卵かけごはん。出汁が聞いて最高においしいんですよ!!。
さくら餅
餡でからめた桜餅もとてもおいしかった…。
抹茶アイス
デザートに抹茶アイスが出るとは思いもよりませんでしたが、食べてみると結構おいしいじゃないですか!!
そのあとの温泉は貸切状態で入ることができました。今までの疲れがスッと消える感じがしてその感触は最高なものでした。また、思っていたより広い露天風呂や内風呂だったので本当に良かったです。

次は2日目の話をさせていただきます。
それじゃ(^^)/


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